伊藤 公平慶應義塾長
はじめに
『大学時報』410号では、立教大学の西原廉太総長が「本来のリベラルアーツ的教養教育の真意」についての慧眼を披露された。本号ではその延長という位置づけで、大学の研究成果の社会実装について議論する。
1. 科学技術イノベーション戦略が発端の社会実装
政府の科学技術イノベーション戦略という枠組みにおいて、大学には、研究成果を社会実装につなげる仕組みづくりの構築が求められている。「科学的な発見や発明等による新たな知識を基にした知的・文化的価値の創造と、それらの知識を発展させて経済的、社会・公共的価値の創造に結びつける革新」(第4期科学技術基本計画、2011年)を求めるのが科学技術イノベーション政策の本旨である。筆者が調べた限りでは、2013年に閣議決定された「科学技術イノベーション総合戦略~新次元日本創造への挑戦~」において社会実装という単語が多用されているのが発端のようだ。理学、工学、農学、医学といった理系分野における発見・発明の応用である。最近の「統合イノベーション戦略」では、「総合知の活用」といった具合に理系以外の重要性も謳われているが、本質は変わっていない。経済創造となると、発見・発明に基づく新産業創出や起業ということになる。社会・公共的価値の創造も併記されてはいるが、経済面に主眼が置かれていることに疑いはない。慶應義塾創立者・福澤諭吉は、ビジネスを蔑む傾向が強かった幕末・維新の時代に、当時の自分の利益のみを追求する商人の限界を指摘し、社会全体を発展させる実業家の育成に励んだ。その成果が福澤山脈と称される近代日本の発展を支えた実業家たちであった。最近の経済産業省の大学発ベンチャー実態等調査によれば慶應義塾大学発スタートアップ数は、20年が全国10位、21年が5位、22年が3位と一気に伸びている。また大学発スタートアップの資金調達の総額では全国1位である。アントレプレナーシップの勢いが増すことは喜ばしい限りであるが、利己的な動機によって駆り立てられがちなビジネスを、利他的な社会の発展につなげることこそが重要であり、そのための多角的な学びの場を用意するのが我々大学の使命である。
2. 三つのプレナー
本題に入る前に、アントレプレナー、イントラプレナー、インタープレナーという三つのプレナーを紹介する。アントレプレナーはご存知のとおり起業家であり、イントラプレナーは既に所属する企業や機関において内部からその機関を変革する人を指す。二つともビジネスの世界で生まれた用語である。一方、インタープレナーは最近になってから使われ始めた用語であり、私の定義は、異なる団体、自治体、国などを有機的につなげる社会システムを開発し、社会全体の幸福を追求する人を指す。機関としては国連などがその例であり、個人としては、福澤諭吉がその好例であることを後で紹介する。
3. 大学の目的と研究成果の社会実装
高等教育を修了した者に求められるのが、人間本来の利己的な側面と、社会の発展に寄与するという利他的な側面の自制的なバランス感覚であり、想像力と創造力とをもって全社会すなわち全世界の人々の気持ちや文化を理解し、地球上の人類の幸せな現在と将来を作っていくことである。壮大すぎる目標に感じるかもしれないが、誰もが経験できるわけではない高等教育を受けることができる学生にとっては、この志こそが宝であり、この志を生涯持ち続けることが、常に学び続けるという向上心につながる。困窮学生がいることも承知しているが、大学に通うということは、利己的な側面とその自制的なバランスを培うことができる環境におかれていると考えるべきである。学問を駆使して、平和や幸福を社会全体に広げるインタープレナーになることが大学生の本懐であろう。 福澤諭吉は『学問のすゝめ』九編において、ある人が良い職に就き、家を構え、立派な家庭を築いたとしても、それだけでは国民として務めを果たしていないと断じている。そして十編の冒頭において「人たるものは唯一身一家の衣食を給し、以て自ら満足すべからず、人の天性には尚これよりも高き約束あるものなれば、人間交際の仲間に入り、その仲間たる身分を以て世のために勉むる所なかるべからず」と九編の内容をまとめている。利己的な部分に加えて、利他的に世の発展に努めることこそが大切ということだ。この一文で注目すべきは、「人間(にんげん)交際をして」といった具合の動詞形ではなく、「人間(じんかん)交際の仲間に入り」と記されていることである。実は福澤は英語の「society」という名詞を「人間(じんかん)交際」と訳したのだ。日本では世間を大切にし、近所付き合い、すなわち、狭いサークル内での人付き合いや助け合いを重んじてきた。このインナーサークル活動は人間(にんげん)交際であり、サークル外の人は軽んじる傾向がある。バーゲンセールで周りの人への遠慮など一切なく我先と欲しいものを奪い合いながらも、取り合っている相手が知り合いだったとわかるや否やどうぞどうぞと譲り合う。電車の席の取り合いでも、知らない人同士では競争しても、知っている人同士では急に譲り合う。一方福澤は、19世紀の欧米歴訪を通して、知らない人同士、異なるサークル、会社、地域などが法や倫理観に基づき上手に結びつき、文明社会を形成する状況を観察し、その結果として成り立つ好ましい社会を「人間(じんかん)交際」と訳したのだ。その上で、「世の中に最も大切なるものは人と人との交り付合なり。是即ち一の学問なり」(豊前豊後道普請の説)と述べ、「凡そ世に学問といい、工業といい、政治といい、法律というも、皆人間(じんかん)交際のためにするものにて、人間の交際あらざれば何れも不用のものたるべし。…交際愈々(いよいよ)広ければ人情愈々和らぎ、…戦争を起こすこと軽率ならず」(『学問のすゝめ』九編)と説いている。福澤は、交流のない村や町をつなぎ、文明的な社会、文明的な日本を作り上げようとしたインタープレナーだったのだ。そこで力を発揮するのが学問であり、これこそが学術成果の社会実装なのである。
さて、異なる世間や組織、国が共通のルールに則り、よりよい社会を作っていくことが今で言うところの社会科学という学問の社会実装なのだが、人間関係のすべてが社会科学の理論通りに進むわけではない。論理的思考に基づく社会科学は学問の粋であるが、現実においては、様々なステークホルダーの感情や人間関係が支配して、論理的思考が実装できない状況にも直面する。福澤がsocietyを「社会」と単純に訳さなかったポイントはまさにここにあると筆者は推察している。科学的な思考に加えて必要となるのは人間力であり、人間だからこその価値観や拠り所に関わる文学、芸術、宗教、哲学、倫理学といった人文学なのであろう。ロシアによる侵攻の被害で最悪な状況におかれたウクライナ人が、それでも生き続ける意味を文学に見出したという記事を最近読んだ。なぜ生きるかという最も基本的な問いに現代科学は答えることはできない。このような人々とつながるためには現代科学だけでは不十分なのである。
410号で西原総長がリベラルアーツの重要性を論じ、「教育とはあくまでも、『ひと』一人ひとりの人格を陶冶し、そのことによって社会、世界に福利をもたらすための尊い働き」と記している。さらにその前の409号では、駒澤大学の各務洋子学長が「いかなる状況下においても本質を見極め、自他(自利・利他)の視点で自分の能力を最大限に発揮できる人材が求められる」と述べている。立教大学はキリスト教(米国聖公会)、駒澤大学は仏教(曹洞宗)、慶應義塾大学は洋学といった具合に、建学の精神は異なるが、学問によって社会を平和で幸せに導くという考え方では完全に一致している。これこそが我々が考える大学の研究成果の社会実装であり、これを実行できるかが今の我々、大学人に問われている。
慶應義塾としては、一人でも多くのアントレプレナーが育ち、学生らが社会全体の平和と幸せを実現する実業家として飛躍する教育体制の発展を常に心がける。そして、様々な事業体において自らの変革を主導するイントラプレナーの存在が大切になっているのと同様、慶應義塾においても教育と研究を中心とした現代の高等教育機関のあるべき姿を的確に追い求めるイントラプレナーシップを大切にし、一人ひとりの研究者は自分の研究分野に変革をもたらすイントラプレナーとしての志を高くすることが重要である。ただしこれだけでは不十分で、社会全体を平和で幸せに導く活動、すなわち学問の社会実装によるインタープレナーシップを発揮するのが慶應義塾の使命であり、すべての大学と一緒に進めていくべき共同作業だと考える。