一般社団法人 日本私立大学連盟(JAPUC)
旅館の前で着物を着た宮﨑知子さん
クローズアップインタビュー
クローズアップインタビュー

株式会社陣屋 代表取締役 女将、株式会社陣屋コネクト 代表取締役 CEO 宮﨑 知子さんに聞く 株式会社陣屋 代表取締役 女将、株式会社陣屋コネクト 代表取締役 CEO 宮﨑 知子さんに聞く

[聞き手]川島 葵さん フリーアナウンサー

宮﨑 知子(みやざき・ともこ)

1977年生まれ、東京都出身。1998年、昭和女子大学短期大学部国語国文学科卒業後、同大学文学部日本文化史学科に編入。卒業後、リース会社に一般職として入社。結婚・出産後、夫の実家が営む老舗旅館「元湯 陣屋」の経営再建のため女将に就任。ITを駆使して経営改革に取り組み、業績をV字回復させたことで注目を浴びる。

老舗旅館の女将に転身して
経営を再建
地域活性化にも取り組む

歴史に興味を持ち
修復学のゼミに所属

川島 本日は神奈川県・秦野市の鶴巻温泉にある創業100年を超える老舗旅館『元湯 陣屋』に来ています。お話をお伺いするのは、ここで女将を務めている宮﨑知子さんです。経営危機にあったこの宿をご夫婦で立て直されただけでなく、クラウド型旅館・ホテル管理システムを提供する株式会社陣屋コネクトを立ち上げるなど起業家としても活躍されています。本日はそんな宮﨑さんに、幼少時代のお話から起業に至るまでのエピソードなど幅広くお話を聞かせていただきたく思います。宮﨑さんは東京生まれ東京育ちということですが、どのような幼少期を過ごされたのでしょうか。

宮﨑 近くの区立の小学校に通っていましたが、どちらかというと外で遊ぶのが好きなタイプの子どもでした。女の子とも男の子とも分け隔てなく、外で楽しく遊んでいましたね。ですから、昭和女子大学附属中高部に進学したいと担任の先生に伝えた時には、「女の子しかいないけど大丈夫?」と心配されました。

川島 昭和女子大学附属中高部を選ばれた理由は何だったのでしょうか。

宮﨑 私の5つ上のいとこがちょうど団塊ジュニア世代で高校受験に苦労している姿を親が見ていたんです。それで、中高一貫もいいんじゃないかということで親が薦めてくれました。また、父の職場に卒業生の方がおられて、その方の出身校だということが心に響いたようです。

川島 どのような中学・高校生活を送られたのでしょうか。

宮﨑 運動神経が良かったわけではありませんが、体を動かすのは好きでしたので、部活動は体育会系で、中学校ではソフトボール部、高校では硬式テニス部に入部しました。部活で、合宿だ何だと出掛けることが多かったですね。

川島 その後、昭和女子大学短期大学部の国語国文学科に進まれ、昭和女子大学文学部日本文化史学科に編入されたそうですね。

宮﨑 短期大学部は、入学してみると本当に本好きな学生が多くて、自分の読書量の少なさを思い知らされてとても焦ったのを覚えています。私もしっかり頑張らなければと。
学ぶうちに歴史や民俗学の分野に興味が出てきて、内部進学したいと思い、編入しました。その時はまだ、どんな職業に就きたいかも決まっておらず、好きなことを学べればいいという気持ちで進学を決めました。
高校までと違って好きなものを組み立てて履修できるのが楽しかったですね。聴きたい講義がたくさんあって、4年生になっても週6日大学に通っていました。

川島 特に記憶に残っている学びはありますか。

宮﨑 修復学のゼミに所属して、ある自治体の文化財の修復を手伝ったのは思い出深い経験です。展示するために文化財に耐久性を高める処理を施したり、X線検査装置を使って非破壊検査を行ったり、レプリカを作成したりしました。3年生から4年生まで携わり、卒業論文にまとめました。

川島 将来、文化財の修復を専門にするという選択肢もあったのですか。

宮﨑 そのためには歴史の知識だけではなく、美術や化学の知識・技術も必要でした。そう考えると私には正直難しいなと。高校の時になるべく避けてきた化学が必要になるとは思わなかったのですが、学問がいろいろな分野でつながって成り立っていることを実感できたのは良かったです。

川島 素晴らしいですね。学生の時に好きな道に進まれて追求されていく中で、不足するものが見えてくる、それもまた新たな学習の形と言えるかもしれませんね。

エンジニアの妻から
老舗旅館の女将へ

川島 会社勤めを経験されて、その後、どのような経緯で老舗旅館の女将を務めることになったのですか。

宮﨑 6年間、リース会社に勤めた後、メーカーでエンジニアとして働いていた夫と結婚しました。夫の実家が旅館を営んでいることは知っていましたが、夫は自分が継ぐことはないと言っており、エンジニアの妻として生きていくものだと思っていました。しかし、長男が生まれた後に義父が急死してしまい、長女を妊娠して切迫流産の危険があったため入院していた時に、義母から旅館の経営が危ないということを知らされました。それが出産の10日ほど前という時でした。
いろいろな状況から、当初は旅館を閉めることを念頭に動いていたのですが、リーマンショックの直後ということもあって経営権を売却することも難しい状況でした。義母も体調を崩して入院したため、夫と話し合った結果、話を聞いてから2週間ほどで、夫も会社を辞めて二人で旅館を継ぐことに決めました。

川島 ご家族の将来を決めるような重大な決断ですね。

宮﨑 旅館の借入金が10億円ありました。夫の生涯賃金を超えているわけですから、働き続けてもどうにもならない。だったら辞めようということになりました。当時はまだ二人とも30代になったばかりでしたから、あと30年くらい一緒に働けばなんとかなるんじゃないかとも思っていました。

宮﨑 知子さん

無駄を省きつつ
新しい技術を導入

川島 葵さん

川島 それからどのように旅館の再建に取り組んでいったのでしょうか。

宮﨑 2009年10月1日に夫が社長、私が女将に就任しました。私は女将の修行をしたことがない上、義母も入退院を繰り返すような状態でしたので、引き継ぎもうまくできず、見よう見まねで仕事をしていました。会社員時代の経験で電話対応だけはできましたから、最初はとにかく電話対応ばかりしていました。予約を受け付けたり、問い合わせに答えたりしながら、徐々に仕事を覚えていった感じですね。経営再建については、まず1カ月ほど旅館の様子を静観することから始めました。旅館で何が起きているのか分からなかったので、観察しながら把握しようと。

川島 そこからさまざまな課題が見えてくるわけですね。

宮﨑 最初に気付いたのは、何よりもまず人が多過ぎるということです。客室が20部屋しかないにもかかわらず、正規の従業員が20名、パートタイムの従業員が100名近くいたんです。その理由を調べてみると、業務が細分化されていた上、それぞれの業務に担当が固定されており、自分の担当以外の業務はやらないという状態になっていました。本来、この業務をするなら、続けてこの業務もした方がスムーズな場合が多いのにそれができない。そのため、次の業務の担当者を待つ時間が生じて無駄になりますし、情報の引き継ぎができず、サービスの質も安定しませんでした。お客さまからもこんなに人がいるのに、なぜ誰も対応してくれないんだろうと思われていたようです。
また、旅館の敷地は広く、建物があちこちに離れています。すると、従業員が建物ごとに固定化されているため、母屋では忙しくしているのに、別の棟ではのんびり働いているという状態が起きていました。旅館全体が“ワンチーム”として動くことが難しい状態になっていて、結果として多くの無駄が発生していました。

川島 そうした状況からどのようにして改革に取り組んでいかれたのですか。

宮﨑 無駄を省くために全棟の稼働状況を夫と一緒に調査して、表計算ソフトで稼働率を割り出しました。出てきた数値を基に、稼働率の低い施設を閉鎖したり、その施設の従業員を配置替えしたりするなどして効率化を進めました。ベテランの従業員の中には、自分の持ち場や業務に強い愛着やプライドを持っている人もいましたが、彼らを説得するためにも数値を示すことは重要でした。

川島 新しい技術も積極的に導入されたそうですね。

宮﨑 敷地が1万坪あるので、従業員が現場に散ってしまった時に、誰がどこで何をしているか状況が把握しづらいという問題がありました。また、従業員同士は内線電話でやり取りをするのですが、お客さまとお話ししていたり、作業をしていたりして出られない時があります。それでも電話をずっと鳴らし続けたり、何度もかけ直したりしているとみんなのイライラがたまってきますし、内線電話では1対1でしか話せないので情報共有がしづらい。そこで、内線電話以外の連絡ツールを取り入れたいと考えて、インカムを導入しました。

川島 新しい取り組みを実行するのには勇気も必要だったかと思います。

宮﨑 敷地が広いため高性能なインカムを使わなければならず、1台当たりの費用も高額でした。それを必要な数だけそろえるには、初期投資の額がかなり膨らみます。そこで最初は数台だけ導入して使い始めてみたのですが、ベテランの従業員は「着物に合わない」「目の前のお客さまのご迷惑になる」と拒否感を示しました。しかし、1カ月でいいから使ってみてほしいと説き伏せたところ、しばらくすると「これ結構便利だね」という反応に変わっていきました。年配の従業員がインカムで「ちょっと手伝ってほしい」と連絡すれば、若い従業員がレスポンスを返してサポートするような流れができてきたんです。それからインカムが一気に旅館内で普及しました。

川島 今まで知らなかっただけで、使ってみて気付くことがあったのですね。

川島 葵さん

修復学で学んだ
中継ぎの重要性

川島 伝統を守りながらも、宮﨑さんご自身が「女将とは」「旅館とは」という固定観念に縛られていなかったところも良かったんでしょうね。

宮﨑 そうは言っても、やはり従業員からの反発はありました。従業員には、自分の担当業務だけでなく、周辺業務もやってもらえるようにお願いしていたのですが、自分の仕事への誇りがある職人気質のベテラン従業員もいました。また、人間関係に気を使ってサポートを頼みづらいという従業員もいました。そういう時は、「〝女将がそうするように言っている〟と私の名前を使っていいから」と声を掛けていました。私も従業員に無理な業務をお願いしているわけではなく、成長に期待して新しい業務に取り組んでもらっているわけです。普通の会社であれば人事異動で職場や業務が変わるのは当然のことですし、そうして会社全体を効率化していくことで会社と従業員の利益につながる。それは老舗旅館であっても変わらないと思っています。
やはり変化してきたのは、自分たちにとっても良いことが、お客さまにとってもプラスになる、おもてなしになるという実感を皆が持ち始めてからだったように思います。

川島 そうして手探りで女将の仕事をこなされる中で、学生時代に学んだことが生きていると感じたことはありますか。

宮﨑 中学、高校の時は校則が厳しかったのですが、当時はその意味をきちんと理解できていませんでした。でも、陣屋で女将として接客をするようになった時、生徒手帳に書かれていた内容が接客業のマニュアルととてもよく似ていることに気が付きました。また、茶道の授業が必須でしたので、和室への入室の仕方やお辞儀の仕方などに困ることもありませんでした。卒業して長い時間が経って、当時の学びが生きているのを実感しました。

川島 お仕事をされている中で、今でもふと思い出す教えのようなこともありますか。

宮﨑 修復学では、現在の修復は中継ぎのために行っているのだということを教えられました。文化財などを今、完全に直すことはできなくてもいい。50年、100年経った時には新しいテクノロジーができているはずなので、それまで持てばいい。そのために今の技術でできるだけ良い状態で保存すればいいのだと。
日本は老舗企業が多いと言われていますが、やはりどこかの代で成し遂げた大きな功績がその後を支えているという面があります。旅館の経営を長く続けていくことを考えると、やはりそうした中継ぎの存在が重要になると思っています。私も50年、100年後を見据えて、中継ぎとして今、何をやることがベストなのか考えるようにしています。

地域の活性化を視野に
新規ビジネスを立ち上げる

川島 中継ぎという気持ちで女将を務められている一方で、クラウド型旅館・ホテル管理システムを提供する株式会社陣屋コネクトを設立されました。これにはどういう狙いがあったのでしょうか。

宮﨑 現在、宿泊業でも事業承継が大きな課題になっています。代替わりする際には、お客さまの情報や創業時のアイデンティティといった、その宿ならではの特長をどれだけ引き継いで維持していくかが重要なファクターだと私は思っています。しかし、従来はそれがなかなか難しいという課題がありました。私自身、義母から女将の仕事を教わることができなかったため、馴染みのお客さまに対して十分な応対ができずもどかしい思いをしたことがあります。しかし、ITを駆使すれば、その宿の財産である情報の伝達をサポートすることができるのではないか。そう考えて、クラウド型旅館・ホテル管理システムを開発しました。

川島 従業員の皆さんがお客さまのお名前を呼んでお出迎えをされたり、利き手に応じてお箸の向きを変えたり、さらにはお水を常温で提供するか氷を入れるかまで、本当に細かい情報がシステムを通して共有されていることに驚きました。

宮﨑 鶴巻温泉は横浜や湘南、箱根といった観光地から小一時間かかるような場所にあるため、どうしても観光起点で集客するのが難しいという状況があります。ですから、旅館自体を旅の目的地にしていただけるようなリピーターを獲得することが私たちにとっての生命線であると当初から考えていました。こまやかなおもてなしは、従来はベテランの従業員だけが蓄積してきたノウハウだったかと思いますが、それを新しく入った従業員も提供できるようにすることでサービスのクオリティを安定させ、リピーターを増やすことが狙いでした。

川島 2020年には、13の自治体にまたがって地域活性化を促進する「里山文化圏構想」を立ち上げるなど、旅館の枠にとらわれない挑戦をされています。その背景にはどのような思いがあったのでしょうか。

宮﨑 宿泊・観光業を広く捉えた時に、やはり自分の旅館1軒だけが頑張っても限界があることを実感しました。陣屋は現在、客室が18しかない小さな旅館ですが、それでも取引先は100社以上に及びます。観光が基幹産業になっている地域では、それに付随するさまざまな産業があるので観光業に元気がないと街が廃れていってしまうのです。ですから、なんとかエリア全体を盛り上げたいと思って「里山文化圏構想」を立ち上げました。先ほど申し上げたように、鶴巻温泉は周辺に比べて名の通った観光地ではないため旅行予約サイトでも検索に引っかかりにくいという面があります。そこで現在は、自分の宿が満室になったら地元の同業者に送客したり、地元の旅館や飲食店で食材を共同購入したりするなど、互いにサポートし合えるプラットフォームを構築しています。

川島 そうしたアイデアはどのようにして湧いてくるのでしょうか。

宮﨑 たまに、「アイデアが枯渇しそうだな」と感じた時は、インプットの時間を作るようにしています。従業員の皆さんにも旅が好きでいてほしいですし、外に出て刺激をもらって仕事やプライベートで生かしていただきたいという思いから、陣屋では変形労働時間制で週休3日にしています。宿泊は金・土・日の3日間で月曜の夜から閉館します。1日の拘束時間は少し長くなりますが、まとまった休みを取れた方が、疲れを癒すだけでなく、何かプラスになることに使えると思っています。

川島 私が大学生だったら就職試験を受けたくなるような素敵な職場だと思いました。

宮﨑さんと川島さん