感染症の流行がはじまった2020年春、学生生活は大きく変化した。人と人との接触を回避すべく、キャンパスへの入構は制限され、学生たちは憧れのキャンパスライフとは程遠い孤独な生活を突きつけられたのだ。
いまだ感染症収束の見通しが立っていない中、各大学は感染状況を考慮しながら対面授業を再開するなど、アフターコロナに向けて大学の活気を取り戻そうと努めている。その一方で、学生生活にうまく馴染むことができないまま今に至る学生や、生活が「対面」に切り替わっていくことに戸惑いを覚える学生も少なくないのではないだろうか。「失われたキャンパスライフ」が残した課題は根深く、大学は手探りで活路を見出そうとしている。
対人関係を構築した経験や、そこから得られた学びは、学生の成長や進路選択に大きな影響を及ぼすと考えられている。今まさに大きな変化の渦中にいる学生に向けて、大学は何をすべきなのか。本特集では、各大学の取り組み事例の紹介を通じて、感染症が学生たちのキャンパスライフに与えた影響等を振り返り、コロナ禍を生きる学生たちにとっての「友だちづくり」の意義について考える機会としたい。
居場所づくりが必要になった大学
石田 光規
早稲田大学文学学術院教授
1 友だちに否定的なことは言えない
「友だちとケンカをしてしまうと修復の機会がなさそうで怖い」
これは、私のゼミの学生が読書会の際に発した言葉である。読書会に参加しているすべての学生が賛同していたので、決して珍しい考えではないのだろう。昨今の大学生は、これほどまでにはかない友人関係の中で大学生活を送っている。
私たちが友だちづきあいの中に、頑健さではなくはかなさを見いだすようになったのは、2000年代あたりからのことだ。物的に豊かになり、個々人の意見を尊重する機運が増すと、私たちはいろいろな物事を選択できるようになった。
友だちづきあいもその限りではなく、中学校・高校のようにクラスのない大学では、特に選択の余地が増していった。今や、どのような人とどのように付き合うかは、それぞれの選択に委ねられている。
付き合う相手を選べるようになれば、私たちは、お望みの相手と好きなように付き合うことができる、と思うだろう。しかし、冒頭の大学生の発言を見ると、現実にはそうなっていないように感じる。むしろ、友だちづきあいに、必要以上に気を遣っている姿が浮かび上がる。
なぜ、このようになってしまったのか。答えは簡単だ。付き合う相手を選ぶ権利は、私のみならず周りの人も持っているからである。
私が付き合う相手を選ぶことができるように、あなたも付き合う相手を選ぶことができる。このような社会で付き合う相手、すなわち、友だちを確保するには、相手から友だちとして選んでもらわなければならない。
友だちとして選ばれるためには、相手に魅力的だと思ってもらうことが肝要だ。かくして大学生は、さほど興味がなくとも流行の歌をチェックし、みんなにウケるネタを仕入れるようになる。ケンカなどはもってのほかだ。ケンカを含め、つながりの中に否定的な材料を注ぎ込む行為は、友だち関係の存続を脅かすのである。
大学生は、友だち関係を維持するために、互いに対立を避け、気を遣いあいながらキャンパスライフを送っている。その一方で、過剰な気遣いにより成り立つ関係は、「友だちといると疲れる」状態を引き起こし、本音の行き場所や居場所の問題を引き起こす。ゼミ、サークル、アルバイトなど多数の集団に所属していても、「本音を出せる場所がない」と語る大学生は少なくない。
2 人間関係の棚卸しと接触の選別
このような中、世界はコロナ騒動に巻き込まれた。「人と会うこと」を不要不急の範疇に取り込んだコロナ禍は、付き合う相手の選別傾向、すなわち、「接触の選別」を加速させた。その仕組みはこうだ。
コロナ禍に突入し、「新しい生活様式」や「不要不急」が声高に叫ばれる中、私たちは「人間関係の棚卸し」をいっせいに始めた。なかなか人と会えない中で、それでも会うべき人はどのような人なのか、国民全員が一斉に考え出したのである。
その結果、直接会うに足る魅力に欠ける人は、つながりから排除されていった。まさに「接触の選別」とでも言うべき現象が、この三年弱の間に引き起こされたのである。
「人間関係の棚卸し」や「接触の選別」の影響は、大学生に対して特に深刻であった。多くの大学生は、入学後にはゼロベースで自らの友だち関係を再編する、という課題を背負う。しかしながら、多くの人が付き合うべき相手を見直し、接触を限定してゆく中で、新しいつながりをつくるのは容易ではない。
初対面の人と友だち関係を築くには、共に行動し、会話をする必要がある。しかし、コロナ騒動の渦中には、おいそれと人を誘えない。声をかけた相手から「常識のない人」と思われる可能性があるからだ。
先にも述べたように、誰かと友だちになるにあたり最も避けるべきは、否定的評価である。会話や外食に対して、相手がどのようなイメージを抱いているかわからない中で誰かを誘うのは、勇気のいることだ。
コロナ前に友だちづくりの機会を提供してきた懇親会も、公には禁止され、会食は、若干の後ろめたさを伴う「ヤミ行為」になった。「人間関係の棚卸し」や「接触の選別」が進む中、あえてこの時期に対面で会おうとする相手は、高校の頃に仲のよかった人など、すでに気心の知れた相手に限られてくる。3年経ってもマスクを外した顔を見たことがない、という関係は決して珍しくはない。
コロナ騒動も3年目に入ると、キャンパスを闊歩する学生の大半は、コロナ対応下にある大学しか知らない。当然ながら、孤独感や心理的な不安を抱える学生は増え、早稲田大学でも学生相談の件数は増している。とくに地方出身者は、新しいつながりもできず、かといって、これまで仲良かった友だちにも会えず、という状況から体調不良に陥る人が多い。
行動の選択肢が増す大学生活は、自ら動かなければ友だち関係からも置いていかれがちだ。コロナ禍により自由な行動は制約され、なおかつ、選別の傾向は増している。そこにコロナ禍がもたらしたもう一つの産物、オンライン化が加わり、友だちづくりは一層難しくなった。
3 選別を加速させるオンライン
周知のように、大学のみならず日本社会では、コロナ禍を経てオンラインでの交流が急速に増えていった。
そもそも、日本国民の多くがスマートフォンを手にした時点で、オンラインで交流する環境は技術的には整っていた。とはいえ、私たちはオンラインよりも対面の交流を「いいもの」と考えていた。
コロナ禍はオンライン行動に関する時計の針を一挙に進め、オンラインの交流を文化としても許容しうる土壌を生み出した。オンラインの交流が文化として受け入れられたことで、私たちは人と何かをするにあたり、オンラインで済ますか対面にするかを考えるようになった。
このような社会で人と顔を合わせて交流するには、直接会うに足る理由をそれぞれが用意しなければならない。オンラインで事足りると判断された物事は、電子的なコミュニケーションに置き換えられてゆき、「接触の選別」はますます進んでゆく。
大学の授業のオンライン化が進んでゆけば、選別はさらに加速するだろう。授業を媒介に学生が何気なく集まっていた時代は過去のものとなり、目的や気分を共有する者だけが会うようになる。何気なく大学に行き、授業に出て友だちをつくるという行為は、オンライン化の動向によっては難しくなるかもしれない。
4 集まる場所を確保する
今や大学が「何気なく」集まれる場所を「意図的に」つくらなければならない時代になりつつある。「何気ない」ものを「意図的に」つくるというのは、言葉として矛盾しているが、そのような時代にさしかかっているのだ。放っておいても誰もがキャンパスに集まっていた時代とは違う。
人と会わなくてもよい環境が整備されれば、私たちは誰かに会うときも「会うに足る目的」を欲するようになる。一見合理的に思える目的をベースとした交流は、目的から外れた人を排除し、場に息苦しさを生み出すこともある。
誰かと会う目的を一生懸命に準備し、その目的を満たすよう努力して友だちの輪に入り込む。そのような付き合いは、時に重苦しいものにもなろう。だからこそ、目的や役割といったものから離れ、ただ集まれる・立ち寄れる場所をつくる必要がある。
とはいえ、目的や役割を問わない場所をつくるのはことのほか難しい。目的や役割を問わない場は、その性質ゆえ、そこに立ち寄る理由までも奪ってしまう。日々忙しく、目的ベースで物事を考えがちな大学生が、立ち寄る理由のない場にわざわざ足を向けるとは考えがたい。したがって、目的や役割を問わない場所とはいえ、学生が足を向ける工夫は必要だ。手っ取り早いのは学生に必要な活動と居場所の機能を連結させることである。
取るべき方策は大学の置かれた状況により異なるだろう。学業が学生を結びつける触媒になる大学もあれば、カフェが機能する大学もある。その点を見極めるためには、まず、学生の状況を精査することだ。大学がキャンパスの中に学生の居場所をどのようにつくっていくか。そのようなことを考える時代になりつつある。