[聞き手] 外川 智恵さん 大正大学表現学部准教授
秋山 正子(あきやま・まさこ)
秋田市生まれ。1973年聖路加看護大学(現聖路加国際大学)を卒業。看護師・助産師を経て、1992年東京の医療法人春峰会の白十字訪問看護ステーションで訪問看護を開始。2001年ケアーズ白十字訪問看護ステーションを起業、代表取締役に。2011年「暮らしの保健室」を東京・新宿に開設、2016年NPO法人マギーズ東京を設立。
第二の我が家のようなこの場所で
自身の輝きと生きる力を取り戻してもらえたら
一人の女性のがんの体験とその思いから生まれた“居場所”
外川 豊洲市場からほど近い、海風がさわやかに吹き抜けるマギーズ東京。ここまでの道沿いにも季節の花々が咲き、周辺を歩くだけでも気持ちが癒されるようでした。建物の中のインテリアもどれもすてきで、椅子に座って庭を眺めると、ここが東京のウォーターフロントであることを忘れてしまいそうです。
秋山 今日(取材日:2021年4月22日)はお天気もとても良く、秋に植えた花々もちょうど満開になったところです。マギーズセンターは、1996年にイギリスで生まれた考え方であり、場です。造園家であるマギー・ジェンクスのご自身のがんの体験とその思いから生まれました。ですから、マギーズ東京でも庭や景色、インテリアなどもイギリスの家庭のような雰囲気を取り入れています。
外川 イギリスでマギーズセンターが誕生したいきさつを、もう少し詳しくお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。
秋山 造園家で造園史家でもあったマギー・ジェンクスは、がんで「余命数カ月」と医師に告げられた際、大きなショックを受けました。そんな状況だったにもかかわらず、病院では次の患者がいるので、そこを出るようにと言われ、廊下に立ち尽くしたと言います。彼女はがんの治療を受けながら「治療中でも患者ではなく、一人の人間でいられる場所と、友人のような道案内がほしい」と願い、病床でマギーズセンターのアイデアを伝えていました。
彼女の思いは、夫で建築評論家のチャールズ・ジェンクスと担当看護師だったローラ・リーによって受け継がれ、マギーが亡くなった翌年の1996年にマギーズ・エジンバラがオープンしたのです。その後、マギーズキャンサーケアリングセンター(マギーズセンター)は、イギリス国内で20を超え、香港、スペイン、オーストラリアなどにも展開し、2016年にマギーズ東京もスタートしました。
病院とは別の場所で病気や自分と向き合うことの大切さ
外川 こちらにマギーズ東京がオープンしたのは2016年ということですが、その前に新宿で「暮らしの保健室」を開かれていますね。そういった活動を始めようと思ったきっかけはどのようなことだったのでしょうか。
秋山 私は、1989年から90年にかけて、2つ年上の姉を転移性の肝臓がんで41歳という若さで亡くしました。姉は病院で、余命1カ月と言われました。当時はまだがんを在宅でケアするという制度はありませんでしたが、家族と話し合い、姉は子どものいる自分の家に帰ってケアすることができ、4カ月半生きて亡くなったのです。そのことをきっかけに、「これからは病気になったら必ずしも病院に入院するのではなく、自分が一番暮らしやすい場所で療養することを必要とする人が多くなるのではないか」と考え、訪問看護に携わるようになりました。
外川 実は私もサバイバー(体験者)なのですが、私が罹患し、治療を受けた頃には、自分の気持ちを話せたり、同じ病気を患った人同士がつながったりするという機会や場所もありませんでした。治療の方針や抱える悩みについて、ゆっくり相談できる場があるというのは心強いです。
秋山 2000年を超えた頃からがんの診断や治療の技術は大きく向上し、多くの場合に外来で治療できるようになりました。ただそうなると、医療者と患者とが対話する時間をじっくり取ることができなくなるという状況も生まれてきます。病気の治療など、本人はもちろんいろいろ悩みながら選択をしていくのですが、本人だけでなくご家族にも「何ができるのか、どうすべきなのか」という複雑な思いがあるわけです。そういった悩みを打ち明けられる場が必要だと思っていた時に、2008年にマギーズキャンサーケアリングセンターのエジンバラセンターのセンター長が来日し、国立がんセンターでセミナーが開催されました。そこでマギーズセンターが紹介され、私はとても興味を持ったのです。
小さなつぶやきから一歩ずつ夢を形にしていく
外川 2008年にマギーズセンターの存在を知り、「ぜひとも日本にも」と思われたわけですね。
秋山 セミナーが開催された4カ月後に、友人とともにイギリスを訪れ、マギーズセンターを数カ所見学しました。そのあり方にも思いにもとても共感し、日本にもこんな場所をつくりたいと強く思いましたが、医療制度も異なる当時の日本でこんな施設を私個人がつくることはまるで夢物語です。そこで、まずは一人でも多くの人に、マギーズセンターのことを知ってもらおうと、いろいろな人に会うたびにマギーズセンターの存在と魅力をお話ししてきました。
外川 身近な人にまずは思いを伝え続けてきたのですね。
秋山 私が一人でつぶやき続けてもなかなか真実味がないので、マギーズセンターの責任者の方を東京にお呼びして招聘講演を行いました。講演自体は多くの方に聞いていただきましたが「それはいいね」という声にとどまり、大きな動きにはつながりませんでした。
外川 そこでまずはご自身で一歩踏み出して、活動を現実味のあるものに変えてこられたのでしょうか。
秋山 偶然、新宿区の都営戸山ハイツという大きな団地の商店街に元本屋さんだったスペースがあり、安く貸してくださるという方がおられました。そこを改修して「暮らしの保健室」として2011年にオープンしたのです。がんに限らないよろず健康相談所として地域の方々のさまざまなお悩みを聞いてきました。
外川 活動を進めるにあたり、協力してくださる方々を集めたりすることにご苦労されることはなかったのでしょうか。
秋山 集めるというより、私がつぶやき続けることで、興味を持って集まってきてくれたり、地域の医療や介護の連携会議などでお話する中で、活動の大切さを知ってくださって協力してくださる方が出てきたり―。「暮らしの保健室」に当時テレビの報道記者でがんを経験したもう一人の共同代表である鈴木美穂が取材で訪れた出会いをきっかけに、現在のマギーズ東京を形にしていくための大きな波が動き始めました。
外川 つぶやき続けた結果、このようなすてきな場所が生まれたのですね。
大学の4年間で学んだこと
外川 先生は1969年から1973年まで、現在の聖路加国際大学である聖路加看護大学で学ばれています。看護の道を目指そうと思われたのは、どのようなことがきっかけだったのでしょうか。
秋山 私が高校1年生の時に、父が末期の胃がんで亡くなりました。当時はがんという病名も告知しなかったような時代です。病院では「余命は3カ月、長くても半年」と言われたそうです。それでも母は家に連れて帰り、そこから父は1年半生きました。母が介護する姿を身近で見ていましたが、高校生だった私は母にも父にもひどいことを言ったり、役に立つことができなかったり。それで、悔い改めて看護の道を目指したわけです。
外川 ご出身である秋田から東京の聖路加看護大学へ来られて、どのような学生生活を送られましたか。
秋山 私が入学した当初は全寮制で、ルームメイトと2人で生活していました。朝は礼拝があり、授業も多く、実習も1年次からあったので、一般的な大学生よりは大学にいる時間が長かったと思います。
外川 聖路加での学びの中で培われたスピリットのようなものはありますか。
秋山 現在は課程が別になっていますが、当時は看護も公衆衛生も土台が一緒で、地域に広く目を向け、地域の健康の重要性と健康な人も看護の対象であるということを教わりました。病院の中だけで病気の人だけを見るのではなく、地域の力を引き出してそこで生活する人たちみんなを元気にしていくというか。実はマギーズ東京の前の花畑も地域の方々と一緒に手入れをしています。ここに病気の相談に来られた方が、花を見て気持ちがほっとすること、ここを通る人々の気持ちが癒されることなど、本当に地域との共同作業なのだと実感しています。基礎教育として地域を考える視点を学んだことは、今の活動につながっていると思います。
外川 聖路加の近くには隅田川や築地もありますから、学業以外も充実しておられたでしょうね。
秋山 銀座が徒歩圏なので、大通りやデパートなどその華やかさは、高校生までを過ごした秋田と大きなギャップがあり、楽しかったのを覚えています。また、大学では演劇部だったこともあり、少し足を延ばして帝国劇場や日生劇場に通い、安い切符を手にして観劇をしたりもしました。
これからの看護に必要とされる視点
外川 現在の看護大学で、こんなことを学んでほしい、制度としてこんなカリキュラムがあったらなどの思いがあれば聞かせてください。
秋山 昨年は、ナイチンゲール生誕200年という記念の年でした。実は彼女は晩年にこんなことを語っています。「2000年には病院や施設はなくなり、イギリスの家庭の婦人たちは衛生の知識を持ち、何か悪い兆しがあったらそれぞれの家庭でケアを受けられるようになっているでしょう」と。当時から、予防と在宅ケアが基本だという考えを持っていたのです。
外川 まさに今の看護に欠かせない視点ですね。
秋山 そうなんです。現在、彼女の思いはまだ現実にはなっていませんが、病気にかかったら必ずしも病院へということではなく、セルフケアできる人を育て、個々に、そして地域から病気を防ぎ健康を維持するための教養を身につけた人に育ってほしいと願っています。専門知識に偏りすぎず、幅広い好奇心、興味を大切にしてほしいです。
外川 大学がそのような人材を育てていく努力も必要かもしれませんね。確かに病気のことだけでなく、病気の人もそうでない人も、さまざまな痛みや悩みを抱えながら生きているわけですから、そこに寄り添うためには、幅広い教養や経験が大切なのだと思います。
一人ひとりの悩みに寄り添い気持ちをほぐす場所
外川 2016年からこちらでマギーズ東京の活動が始動したわけですが、患者さんやそのご家族はどのようにこちらをお知りになり、どのように利用される方が多いのでしょうか。
秋山 ご近所のがん研究会有明病院は全国からがんの患者さんが治療に訪れる病院ですし、国立がん研究センター中央病院も近くです。虎の門病院や東京慈恵会医科大学附属病院、聖路加国際病院などもあり、周辺にがんの治療を行っている病院が多くあります。それぞれの病院にパンフレットを置いていただいていたり、治療帰りの患者さんが立ち寄ってくださったり、ドクターや看護師、ケースワーカーの方が紹介してくださったりしています。
外川 病院でさまざまに治療を受けている方々やそのご家族が、個々に訪れて情報交換をしたり、話をして気持ちを穏やかにされているということですね。
秋山 そうですね。誰でも、無料で予約なしで訪れていただける場なのですが、現在は新型コロナウイルスの影響によって、予約をいただいて密にならないようお話を伺ったり、グループセッションはオンラインに変えるなどの工夫をしながら活動を続けています。
外川 私も自分の経験から、誰に何を話していいかわからないし、どのようなことを聞いていいのかもわからないという悩みはすごくよくわかります。
秋山 みなさんそうなのだと思います。医療の最新情報を知りたいというよりは、例えば病院で提示された治療法や薬に対して、自分自身がどうしたいのかもよくわからないというもやもやした迷いをお持ちの中、揺れ動く気持ちをまずは吐き出す場所が必要とされているのだろうと感じています。
外川 ここで肩の荷を下ろしたり、心のもやもやを晴らしたりして帰られる方は多いでしょうね。
秋山 固くなったり身構えていたりする方の気持ちをまずは、ここでリラックスしてほぐしていただければという思いで、このような空間になっています。そのうえで、がんを患った自分という現実と向き合いながら、それだけでない、それ以外のことできちんと意味のある自分の人生に気づき、自尊心を取り戻していただいて“自分力”を高めていただければと願っています。これまでは医療者に託すという形が当たり前だったかもしれませんが、横に並んで、自分が決めていくために後押ししていくような存在になれればと思います。
一人ひとりの命が輝ける地域の未来のために
外川 暮らしの保健室やマギーズ東京のような活動を続けてこられたモチベーションや心の支えはどういったところにあるのでしょうか。
秋山 大学を卒業した後は、普通に臨床の看護を経験し、その後看護教育の場にも携わりました。そして自分の家族を見送るという経験を経て在宅ホスピスとして活動をしていました。そこで亡くなっていく方々の命を見送るたびに、それぞれの命にはかけがえのない物語が存在し、その命の物語は残された人の心に息づいて、必ず次の世代に受け継がれていくものなのだということに気づかされたのです。最期の時まで輝き続ける命の尊さを教えてくれた人たちのことを伝えていくことが、私にとっては一つの使命であり、それを伝え続けたいという思いがモチベーションにもつながっています。
外川 マギーズ東京の活動だけでもしたいこと、すべきことはたくさん見えていると思いますが、これから生涯を通じてこんなことをしてみたいという思いがあれば聞かせてください。
秋山 私は長く新宿区で暮らしており、望めば最後まで暮らしなれた場で生きることができるよう、医療・介護・福祉の連携が取れた地域づくりを目指しています。そのためには、専門職の人だけでなくそこに住む人の考えからも変えていく必要があるのです。これからはもっとそういった話し合いを地域でオープンに、世代の幅を広げて子どもたちも一緒に活動できたら理想だと思っています。
外川 小さな子どもから働き盛りの方、高齢の方まで一緒にそういった話がオープンにできたらもっとみんなが生きやすい地域づくりにつながりそうですね。本日は勇気の出るようなお話をたくさん伺うことができました。私もここでいただいたパワーを少しずつ、還元できたらと思います。本当にありがとうございました。