真銅 正宏
追手門学院大学学長
1. 大学の教育とは何か
本学の第1期卒業生に、芥川賞作家で、現代の日本を代表する作家宮本輝がいる。本学の附属図書館内には「宮本輝ミュージアム」があり、氏の小説の原稿や、万年筆などの貴重な品々を保管し、半期ごとに企画展を催している。2019年のホームカミングデーには、校友会の主催で、氏と私の対談という催しがあったが、実際は私が日本近現代文学研究者として聞き手に徹し、とても幸福な時間を過ごすことができた。
この宮本輝氏の小説に、やや耳の痛い話であるが、大学の教育について述べている箇所がある。『海岸列車』という作品の中の、主人公の一人である夏彦の述懐である。
きっと、自分たちの世代は、疲れ果てて社会へ出てしまったのだと夏彦は思った。何のための受験勉強だったのであろう。いい大学へ入るということが、まるで人生のすべての目的であるかの如き錯覚を与えられた。しかし、いい大学に合格した者たちの大半は、大きな傘の下での組織人となって、街の中で埋れていく。小学校で疲れ果て、中学校で疲れ果て、高校でとどめの疲弊を得て大学に入ると、そこでやっと解放され、もう勉強なんかこりごりだという心持ちになっていく。
しかも、そんなにも自分の青春をすりへらして入学した大学は、適当に講義を受け、適当に単位さえ修得すれば卒業させてくれるのだ。みんな、馬鹿になって当たり前だ。柔軟な心の時代に、真に豊かなものに触れず、受験勉強に追い立てられ、やっと自由な時間を得たときには、ありとあらゆる快楽と怠惰が口をあけて待っている。この国の教育制度は、青年を愚かにするための巧妙な罠だ。
少なくとも我々の世代以前までは、このような大学教育観にうなずく人々も多かったはずである。しかし、その後、大学の教育制度と環境は大いに変化した。カリキュラムは精度を高めることを求められ、授業時間についても管理の厳格化が進んだ。ただ、その結果、学生たちが本当に大学での学修を楽しみ、いわゆる3つの学力などを効果的に身に付けているかといえば、おぼつかないと言わざるを得ない。学生たちが遅ればせながらにでも「真に豊かなものに触れる」ためには、大学はどのような用意をすればよいのか。
本学においても、教育における内容充実に加えて、手法の最適化についての議論を始めた。教育効果の最大化を目指す方法の模索を、これからの本学における教学に関わる議論の中心に置くことにしている。その手始めに、2020年10月からは組織改編し、教務部に教学企画課を新たに設置して、このことに取り組み始めている。
ホームカミングデーでの対談の様子
2. 伝統の学院と戦後の大学設立
2018年、追手門学院は130周年を祝った。1888年に、大阪偕行社附属小学校として、大阪城の大手前に産声を上げた学院は、中学校、高等学校と順に教育機関として発展し、1966年、ついに念願の大学設立に至った。現在は、こども園から大学院までの総合学園である。ちなみに追手門とは、大手門とも呼ばれる城の正門のことで、大阪城との所縁を示している。
大阪のある程度以上の世代の人々には、未だに「偕行社」という名の方が、とおりが良いようである。創設者は、後の陸軍大臣で陸軍中将の高島鞆之助である。高島はかの乃木希典の媒酌人であり、乃木は日露戦争の凱旋を、明治天皇に続いてまず高島に報告したとされる。2人の映る短い記録映画も残されている。
高島の東京での邸宅は、現在、上智大学のクルトゥルハイム聖堂として用いられている。
また、同志社香里中学校・高等学校の前身は、大阪偕行社中学校(のちに第2山水中学校と改称)であり、戦後に同志社の系列に入った。
このように、学院としては明治から続く伝統校であるが、比較的歴史の浅い大学は、2016年に、50周年を祝ったばかりである。
『追手門学院130年志』は、別に「改革の10年 2008―2018」という副題を持つ。この10年で、理事会改革から始まる画期的なガバナンス改革が進み、学院の組織や意思決定のシステムは大変革を遂げた。特に大学は、2020年度入試において、8年連続志願者増を達成した。しかし、改革の真の成果が問われるのは、これからの教育の中身についてである。現在最も腐心しているのは、追手門学院大学としての特色ある教育の確立である。
学生にとって、最大で最適の効果を上げる教育方法を探求し続け、毎年更新していくこと。これを、これまでの「行動して学び、学びながら行動する」教育実践とともに推進していくことにしている。
2019年に開設した茨木総持寺キャンパス(アカデミックアーク)
3. 教育における制限と効率
しかしながら大学で行われる高等教育は、自由なようで実はさまざまな手枷足枷がかけられていて、学院の構成員がたとえ全員一致して改革を目指しても、個別の場所にはさまざまな困難が降りかかってくる。大学では2021年度から、学年暦を105分13週に変更することを決めたが、その準備のために、学習時間の制約や修得単位数など、大学の教育をめぐる制約の多さに改めて気づくこととなった。
また、単位は学修時間の総数に対して与えられることになっているが、労働時間の計算の援用から始まったことからもわかるとおり、そこには学修効果による差異は加味されていない。例えば同じ科目を履修しても、ある人は4単位、ある人は2単位、というような差異があるのなら、学修意欲はもっと高まるかもしれない。しかし、時間に基づく計算にそのような選択肢はない。これが、教育効果を上げる最適な方法かどうかは、議論が必要であろう。
その一方で、GPA(Grade Point Average)制度も導入され、奨学制度にも連動している。
このような平等主義と競争主義の混在が、教育の現場で効果的に機能しているのであろうか。本来は、もっと別のところに、学生たちの学修意欲を高める根拠を求めるべきであろう。その上で効果的なカリキュラムが整備され、意欲と制度の相乗効果で学生が自ら成長することが、教育の理想である。そのために大学は何ができるのか。
教員になりたての頃、大阪のとある芸術大学の文芸学科で非常勤講師として、小説の書き方を教えていたことがある。この時最初にぶつかった質問が、大学で小説を学んで小説が本当に上手く書けるようになるのか、というものであった。殊に芸術作品などの創造には、このような疑問が付きものであろう。では、大学の文芸学科などというものは無用の長物なのであろうか。
ある人々にとってはそうかもしれない。しかし、小説の書き方にも、最低限のルールやマナーのようなものから、ある時、天から突然降りてくるひらめきのようなものまで、さまざまなレベルが存在する。個人のひらめきに委ねられるような才能ではなく、広く小説なるものを書いたり読んだりする際のコツや目の付けどころなどは、知っておいて損は無い。これらを効率的に学ぶには、大学において講義で一定程度学び、執筆経験豊かな教員から指導を受けることが、絶対的ではないが、自らの才能を開花させる近道かもしれない。そのように学生にも、また自分にも言い聞かせながら、教壇に立ち続けていた。
30年近くも大学教員を続けてきて、もっとこのあたりについて、うまく言えるようになっていても良いはずであるが、未だに効果的な教育を求めての模索は、このような問いかけの延長線上にある
4. 教育理念達成のための3つの合言葉
宮本輝氏は、先に紹介した対談の中で、学生たちへのメッセージとして、「背伸びしてでも」「若いときに、いい小説を読むべきなんです」と述べ、さらに具体的に、1年時にトルストイの『戦争と平和』、2年時に島崎藤村の『夜明け前』、3年時に『ファーブル昆虫記』、そして4年時にユゴーの『レ・ミゼラブル』といういわば長編小説読書のカリキュラムを例示し、「これだけ読んだら十分です」とも述べた。
おそらく氏が述べたかったのは、それぞれの作品の重要性だけではない。むしろ極端に言えばどんな作品でもよいので、とにかく長編小説という、取り組むのにややハードルの高い作品に挑戦し、これを4年間続けることの大切さだと思われる。
これは、なぜ大学で学ぶのか、何を大学で学ぶのか、という問いにも通じる考えであろう。具体的な、専門的な学問内容を学ぶことはもちろん大切であるが、それとともに、いわば学ぶこと自体の大切さをも学ぶ、学び続けることの大切さも知る、ということが、高等教育においてもより大切であると考えられるのである。
学長に就任するに際し、「Student First」「ブランド化」「笑顔づくり」という3つの言葉を、本学の教育理念を達成するための大学運営方針の合言葉として掲げた。
学生第一は言うまでもないことであるが、「Student First」は学生に向かっての言葉ではなく、教職員に向けての再確認のための言葉である。「ブランド化」は、私学の創立の理念を現代につなぎ、これからの時代に良い教育を多くの学生に提供するために必須と考える。さらに、キャンパスはもちろん、職場にも笑顔があふれるような雰囲気づくりを進めたいと考えている。
これらは全て、学生たちが大学の4年間に留まらず、生涯学び続ける力を付けてほしいと願うからである。
社会に出る学生には、何より人と人とのつながりの大切さを伝えたい。人が何かにつまずく場合、その原因は人間関係のこじれであることが大半である。一方、何かを学ぶのも、人からであることが原則である。人はたった一人で生きていけないから社会性が必要となるが、悩みも社会の中の人間関係から生じてくる。だからこそ、これに対応する力を、学生時代にしっかり学んでほしい。それは、それぞれの学問や研究、専門領域を学ぶことと同時並行に行われているはずである。なぜなら、知識だけでは生きた社会に活用できないからである。それは常に、人との関係性の中で動き始める。卒業論文を書けば研究が完成するのではなく、大抵はそこが学びの出発点である。人間関係の学びも同様である。
一生かけて、この人間関係について学び続けることを勧め、これを卒業する学生たちへの本学からの餞としたい。大学の教育が、まだまだ学びのほんの入口であること。ここから、高等教育の可能性をできる限り拡げたい。その成果は、卒業生一人一人の姿という形で、正直に示されることになろう。その時、学び続ける積極的な顔を卒業生が示してくれることを心から願っている。
学生たちが集うラーニングスペース WILホール(2019年撮影)